6個下だけれども、私はすごく尊敬をしている。
そういえば、年齢ってあまり気にしないかも。
教師のとき、目の前にうじゃうじゃと存在する子どもたちも、私にとってはリスペクトの対象で。
・どうして、この子はこういう行動をするんだろう?
・すごいなぁ、わたしもできないよ、そういうの!
思えば、すぐ伝え、お互いの意志疎通をはかる。ときどき、大人でいう“嘘と現実のはざま”、子どもには子どもの世界があり。
大人たちがする、簡単な線引きの中では生きていない。
「かおりん先生は、子ども達をすごく真っ直ぐ見つめますよね」
事務の方にふっと言われ、え、そうですか。と、内心びくついたわたし。
現場に入るまで、人間研究と論文に明け暮れた生活、それは観察対象でしかなく。
身の回りにいた先生でさえ、リスペクトは持ちながらも、どこか一歩引いて、みる癖があった。
「おねえちゃん、顔!」
それよりもっと以前のはなし。
学生時代、子どもが苦手、近づくだけでまずかった私が、大阪梅田、阪神電車の行き交う大人と(踏みそうになった)小さな子どもが足にふれた瞬間、すごい形相になっていると注意。
人としてのリスペクトと、存在を愛せるかは別もんだい。
キャーかわいい!先生の卵たちとの四年間も、私の嫌悪感に拍車がけていた。
現場三年目にようやく、嘘偽りなく「先生あそぼ」「大好き」とまとわりつく存在へ応えたいと。
必死で休み時間バスケしたり、いっしょにドッジしたり、少しでも面白い授業を!と、必要な子にはお母さんへ直談判、夏休みもいっしょに過ごしていた。
全ては、無償の愛、みたいなものを教えてくれた、目の前の存在のため。
離れる前に、少しでも【強く生きていく力】身につけてほしかった。

ふりかえって。
きっと、すべての経験や経過が“今”をつくっているなと思う。
再び、教育や現場、あのときの子どもたちを思いだしながら。
自分の足跡に後悔ないように。
…こんなんじゃ、だめだだめだ!
今も、言い訳、頭の中でかきけし。
めっちゃ、書き消し。
(とりあえず提案書は完成させるぞ。ふむ)
かおりん
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