たぶん、こういう話、ブログでするのも、はじめて。苦手なひとは読まないで。
※先に断っておくと、下記な話はするけれども、私自身はスピ系のひとの収まりでもなく、新興宗教を抱こうとしてる者でもないよもちろん。
かお凛、わたしというひとのこと。
強く自覚したら、今度は悲しみが込み上げてきた。わたしは、結局、どんなに努力しても、普通のひとと、同じにはなれないんだ。やっぱり“違う”んだと。
これまで、ずっと疑問に思っていたことを、最近は“HSPだから”で片付けようとしていた。
なんで、わたしは、こんなにも“わかってしまう”んだろう。こんなにも感じとってしまうんだろう。
逆に、なんで、ひとは感じとれないだろう。感情の波はおろか、目に見えないものさえ、本当に見えない…んだろうか。
疑問なら、まだまだいっぱいある。
どうして、ひとはそんなに物をほしがるのか。物がないと不安なのか。テレビや新聞に出ると喜んだり、有名になることや地位や権力や名誉に憧れを抱いたりするのか。
そして、どうして、自分を特別な存在だと思いたがるのか。
全く、理解ができなかった。
本来、ひとは、ただ全うに生きるだけで、世界中で、たった一人の存在なのに。
でも、今日、全てに納得がいった。
なぜ、わたしは、理解できなかったのかも。自分という人の理解を強めたら、また“降りてきた”。
わたしは、たぶん、それらを持つというのが、どういうことなのか。…つまり、信じられないかもしれないけれど、これを、すでに深く知っている。
理解していた、という方が正しいかもしれない。それらがどういうものか。その使い方も。
神様がわたしにお酒を呑ますのは、人間らしくあれる時間の授受だ。
いろいろ一気にきて、追いつかないけれど、ネコ父が盛んに牽制してくるのも、実はネコ父が“魂を感じられるひと”だからだ。
◆魂レベルの話
ただ、ひとつ。
話する自体は、いつも楽しいのだけれど、正直、彼の哲学は、その“器”が小さく、わたしはどこまでもそれを真っ直ぐにみてしまう。それがきっと苛立ちの原因。
ところが、今回は、それを越えたところで、わたしへの“承認”が起こった。
自覚すると、ますます怖い。
わたしというひとは、ひとの人生を大きく左右しかねない。
この力に、私自身が警戒してる。だからずっと“抑えて”きたんだ。ふつうのひとであろうとして。
かおりん
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