実は、ここ連日夫婦会議が続いている。
この三連休は、たとえば朝モーニングで、たとえば夜飲みながら。
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「今日はいい話し合いができた」
そう、ありがとう、と言われたのが2、3時間前のこと。今日はコチャエでのコンサートのお手伝いのあと、自宅で待ち合わせ、最近行きつけの“ハッピーアワー”してる居酒屋へ行ってきた。

★ふわっふわ厚切り玉子焼き★
◼夫婦でもなかなか話さない“タブー”
たとえば、私たちでいうと、住まいや子どもをどうするかばなし。
今日は、ビール3杯目あたりから、珍しくネコサンの方から切り込んできた。「正直さ‥子どもって」と、第三番目のあまり話題にしない話から。
◼結婚観と子供観のこと
きっとこれまでもしてるけど、また違う角度から。話してるうち、“育ち”の過程から語らうことに。幼少期、小学校、中学校、お互いどんな風に育ち、どんな子育てのもとに今に至ったか。
価値観の違い、その変化やアップデートされる心情を伝え合う
そして、なんでだろう?
私のほうは、結婚した当初の話へ。「家族とは?」の価値観とか、20代の頃に軸にしていた選択基準のこと。親の基準が全てだった時代、親に納得してもらいたい‥それがために生きてきた、という話とか(るりちゃん、こんな風にいうてごめんやで)

★夏はやっぱりこれ★
◼判断基準を占めていたもの
🍎「でも、ネコサンと出会い、結婚して、一緒に過ごすうち、あらゆる価値観が少しずつ変化したよ」
🍎「わたしね、今は“自分が幸せに生きること”、これが親の幸せでもあると信じるようになったんだ」
けっこう真面目な話。
20代、るりや父が望む私でなきゃとか、喜んでくれるなら教師はずっと続けなきゃとか、期待してくれる皆んなに悪いとか、応えなきゃとか。それが一種の苦しみでもあり、でも応える嬉しさもきっとあって。
◼青天の霹靂、当初は理解できなかった夫の価値観
親を大事にする=自分を大事にする
え?これの何が悪いの?
20代後半。ネコサンはつき合った人のなかで、唯一、対等に議論できた初のひと。
であった頃のわたし。今思えば、親への思いはかなりいきすぎていて(こう見えて)常に選択判断に親があり、何かがあると、その判断をさせたのは父(母)やんか!と親を責める癖があった。責任転嫁してしまう自分。
親がこういったから、わたしはこうするしかなかった!
新婚当初、当たり前にそんな台詞が入り乱れて、それを言う度「なにそれ」「は?」となるネコサン。
‥きっとこのひとは頭が悪いんだなくらいに思ってた。
🐱「かおりん、大事にするの意味を履き違えているよ」

★ネコサンの好物、鉄火巻★
◼変わっていく結婚観。何が一番の幸せか?
あれ?わたし何か変わってきたかもと感じたのは、一緒に暮らしはじめて3年目くらい。判断基準の軸が、30年目にして、ようやく“自分軸”になったとき、なにかこう‥すごくふっ切れたの、今でも覚えてる。
いきなり、何かあったとか。そういうことじゃなく、ケンカしながらも、どこかでネコサンの価値観をとても尊敬していたし、私もそうなれたならと、結婚生活はいい意味で修行だったのかも?
◼アップデートされてくのは関係性だけでなく、価値観もそう
🐱「今日話をするまで、かおりんはまだずっと“親の望みを一心に叶えなきゃ”というタイプだと思ってた」
🍎「‥いや。そう、前までそうだったけど、今は少しちがう」
🍎「今は、まず私自身が(もしも親の望みとちがっても)まず“こうありたい”と思うよう生きること。自分が笑顔で暮らすことが、先決だと思ってるよ」
🐱「なるほど。話てみないとワカランもんだね」

◼話すたびに“新しい”感覚
今日は5杯くらい?
ありがとう、と言われたとき、わたしも心のなかで後から言った。
ネコサンと話すのは単純に楽しい。正直、私たちは地球の真裏に暮らす人種ほどに、全く!折り合えないのだけど(それくらい違う)、でも、話すたびに新しい感覚がある。だからつい‥喧嘩しても、また誘ってしまうのよねビール(* ̄ー ̄)★

おつかれさまでした。
結局、書きすぎて‥本題に入れぬまま、今日はここで終わりますー
また語るね。おやすみ!
かおりん
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