自分自身の守り方。気持ちをアップグレードするとき。

 

結局、朝、一番のいいと思うことは“できなかった”。

状況をふまえ、気持ちを淡々とアップグレードしていく。

 

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それでも、今日はとても意味ある時間だった。

 

まず、沢山の話を聞けたこと。そして、自分ではイメージしきれなかった相手の言動や考え、そのイメージへたどり着き、こうして、“相談しながら決められた”ということ。

 

🐥「わたしがかおりんの立場なら(こうするよ)」

 

返ってくる返事、それはとても為になるものばかりで。どうして、わたしはそのときそう思えなかったか、そう対応できなかったのか。とか、できなさに悲しくもなるけれど、それ以上に、こんこんと何度も説明してくれる姿に感動した。

 

◼相手を立てながら主張を通すことが、強いては自分を守るという真実

驚いたことに、最終的な答えとしては、朝のネコサンのアドバイスと同じ。社会とはそういうものなんだと、人間が変われど、同じ単語や同じニュアンスが出てくる意味合いを静かに受けとっていた。

 

自分に足りない『自分を守りながら、主張は主張として通す』。なんと、周りは長けている人の多いことか。アドバイスとして受けとりながら、同時に、すごいなぁと何度も感じて。

 

あぁ、すでに懐かしい‥

そういえば、海外て、英語て、そうだ。ストレートに主張して、日本語みたいにまどろっこしさもない。そういうところが好きだったはずなのに。

 

 

気がついたことがある。

 

 

◼想像以上に“日本人”価値観で生きてるわたし

せいじくんやみなみと話してたとき。先日カナダへいって、わたしは、なんか‥想像以上に“自分て日本人だなぁ”と感じてしまう。

 

しみつくナチュラルな価値観

 

これまではどこかで「私は日本人だけど、日本の価値観にはとらわれすぎてない」と思う自負があった。でも、実際はそうでもない。

 

郷に入らば‥なんとか。

長く住み、そこで成し遂げようとする目標ができれば、その環境の価値に合わせにいってる自分がいるんだと(分かりにくいかも)客観的に感じることもできた。

 

◼日本人あるあるの話

知らず知らず、周りの人を気にしすぎていたり、相手がどう思うか(つい)大事にしすぎたり。

それによって、判断を左右させられたり、考えすぎるがゆえに動けなくなったり。そんなことある?わたしはめっちゃある。

 

自分の性格や性質、生育環境が大きく影響している

これは商売一徹、ひた向きな両親の元に育ったせいもあるかな。

父や母が他人を“人様(ひとさま)”と考えるように、私自身もそうで、ひとはいつだって自分以上の存在で。自分はいつもそれ以下。

その人々のいう意見や考えはまず尊ばれるべき‥みたいな価値観が勝手に身についてしまっている。

 

 

◼大人になった今も

いい悪いは分からないが、いつでも他人は尊ぶべき存在として

年齢がいくつでも。どんなに理不尽があっても、究極は相手を完全に否定することも見下すこともできず、何かトラブルがあれば、100%相手が悪い状況でも、それを起こした要因が自分にあるのでは?と自責する。

万が一、それでも相手を責めることができる自分が生まれるとすれば、‥とうの、相手を責めることよりも、相手を責めてしまう自分に苦しくなるという。

これがほんまにキツイ。

結局のところ、誰も悪くなんか思いたくないし、できるなら‥関わる人全員と、仲良くやりたい。誰も嫌いたくない。むりはわかるが、わかってても、きっとどこかでそう願う平和主義の私がいる。

 

👧「かおりんは、まじめだね」

🐥「うんうん」

👧「そこまで、考えなくていいもんだ」

🍎「へ?」

 

本人その自覚なし。

ただ、浮かぶのは「こうすればもっとよくなるのに!」ビジョンとか。それが見えた瞬間、もどかしいキモチがぶわっとわき、できることをすぐに伝えたくなるし、やれることなら全部やりたくなる‥傾向はあるかもしれない。

 

 

 

この、ぐるぐる思考自体ナンセンス?

めんどくさくなる方は読まないで。ここまでふむふむと読んだあなたは、重なるとこがあるかもしれない。‥とうぞ、おきをつけて。

おうかれ!さぁ、寝ましょう。

 

 

かおりん

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